
いつの間にか祝われる側になっちまいました。ちぇっ。
敬老の日でございます。この場合の老は年寄り、ではなく年長者だって考える事にしてます。そのほうが敬われる側もすんなり受け入れられますでしょ。

中国茶の世界では「老」はポジティブなものとして扱われ、尊重されている事が多いです。
「老」=ラオ、は陳年です。茶樹で言えば樹齢、茶葉で言えば経年。どちらも概ね好意的にみられます。
老叢、老寨、茶壺でいえば泥料の老紫泥や老段泥などといった「老」は値打ちあるものの代表のようです。

↑の「Y口」は孟腊(易武茶区)の有名な産地ですが、Y口老寨とY口新寨の市場価格は大きく異なります。

名高い名産地である”泣く子も黙る”班章も老寨=老班章と新寨=新班章では持つ意味合いも価値も段違いです。特に新と老がある場合だと老はオリジナルっていうイメージが付くので余計かもしれません。

前にも書きましたが、言ってみれば自己申告なので額面通りに受け取るのはちょっとウブですが、特に生茶の場合は老(古)樹茶は尊重されます。
生茶に限らず、岩茶や単叢などもその傾向はありますね。樹勢ってもんがあるので古けりゃいいってものではないのですが、そもそも老樹になるまで枯れもせず毎年若葉をつけ続ける木は基礎体力が優れているので、これは矛盾しているようで理には適っています。

樹齢の老。
年齢差が一番大きくでるのがここです。生産後何年という「陳年」は10年かそこいら、長くても生茶の場合で50年。100年陳茶なんてのはまずお目にかかる事はあってもそうそう飲む機会はありません。樹齢も100年は稀でありますが、50年くらいの樹齢はそこまで稀少ではありません。

広州の展示会に行くと陳年茶を専門に出品している出展者がいます。外装がボロボロになったいかにも古そうな餅茶や磚茶には前世紀の中盤くらいの年とそのお茶の出自が書いてあります。香港、台湾、私蔵…といった文字が多く見られます。

樹齢の経った老樹茶も、大切に保存された陳年茶にも共通するのは「柔らかさ」と「ふくよかさ」です。好好爺、とはちょっと違いますね。柔らかくなっていても力強さや味の厚みはそのまま残っているので。
誰だろう?有名人で良い例えが思いつかないけど。

さんざん老を持ち上げておいてはいますが、番頭は若いお茶の清冽な味やむき出しの強さ、尖った部分も尊重しています。新茶の今じゃなきゃ味わえない美味しさというのもとても尊いものだと思えますんで。タイムマシンってのは無いので、樹齢や経年が簡単に手に入らないのと同様に新茶の時に遡る事は出来ないのです。時間って残酷っすね。
物わかりの良い老人の振りをしてるんではないです。番頭はまだまだ若いお茶側の人間だと思ってますんで、図々しくも。

とまあ、そんな事をつらつらと思う敬老の日でございました。こういう事考える事自体がもう敬われる側に片足突っ込んでる証拠かもしんないすね。ダジャレも通じなくなったし。
成人式みたく「敬老の日、荒れる老人」なんて見出しにならんように今日はおうちで大人しくしてましょ。